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私と骨代謝学研究〜学会賞を受賞して一言〜

医誠会国際総合病院 大薗 恵一

私は、昭和57年(1982年)大阪大学医学部を卒業後、同附属病院で小児科医員として研修を始めました。小児科を選んだのは、小児には成長するという特性があり、今日よりも明日は大きくなっていると感じられる未来の可能性に魅せられたからです。当時大阪大学小児科には清野佳紀先生がおられ、私は学生時代の基礎教室での実習時からカルシウムの生理作用に興味を持っていたため、清野先生に師事することにしました。私にとってラッキーなことは、このように医学部学生から研修1年目の間に、骨発育という生涯のテーマを見出したことにあり、さらにメンターを含め、素晴らしい先輩、同僚、後輩に恵まれたことです。

翌年から2年間関連病院、その後、2年間大学病院で、臨床業務に従事しました。そして、藤田尚男教授の解剖学教室にて、電顕の扱い方を習い、京都大学病態代謝栄養学におられた清野裕先生のところで分子生物学の手技を身につけました。清野佳紀先生のご高配で、当時ビタミンD受容体の転写制御機能について研究していたPike博士の指導を受けるために、米国Baylor College of Medicineに留学しました。Pike先生のご指導のもと、ヒトオステオカルシン遺伝子のビタミンD応答配列の同定などを行い、研究の面白さに目覚めました。アメリカ骨代謝学会にてplenary oral sessionで発表し、Young Investigator Awardを受賞したことは、若い研究者にとって最高の体験でした。

しかし、平成3年(1991年)に帰国した時には、清野先生は岡山大学の小児科教授として転出されており、教室の主たるテーマは先天代謝異常になっていました。心機一転、小児科から病理検査の方に変わろうと思い、平成4年(1992年)、大阪府立母子保健総合医療センター検査科診療主任として赴任しました。当時の母子センターは出生数が多く、胎児新生児死亡により解剖となるケースも多くありました。そこで、骨・軟骨疾患に関わる症例を一手に引き受けて、経験を蓄積しました。また、低ホスファターゼ症(HPP)の出生前診断を行ったのも重要な経験となりました。当時、胎児期に発症するHPPは予後不良であるとされておりましたが、胎児期発症の本症例では、私は分娩にも立ち会いましたが、呼吸確立も順調であり生命予後は問題ありませんでした(この方はもう成人になっておりますが、今でも私の外来に通っています)。似たような症例を複数経験し、のちにHPP周産期良性型という病型を確立しました(図1)。当時、同センターの総長としておられた松本圭史先生(病理学、内分泌学)のご推挙があり、1994年に大阪府立母子保健総合医療センター研究所環境影響部門部長に就任しました。その際、今後の研究テーマとして、従来行ってきましたビタミンD・カルシウム研究に、当時、まだ研究分野として黎明期にあった軟骨代謝の研究を加えました。共同研究などを通じて、24水酸化酵素遺伝子のビタミンD応答配列の同定、軟骨細胞に分化誘導可能なACTD5細胞とジーントラップ法を組み合わせて軟骨特異的発現遺伝子の同定などを行いました。一方では、サイドジョブ的に、骨系統疾患の遺伝子診断や病態解析なども行いました。リン代謝も研究課題に加え、米田俊之教授のもとに留学し教室に加わった道上敏美先生がこの方面の研究を発展させてくれました。

PIとしての研究はやりがいもありましたが、プレッシャーも大きかったです。大阪母子センターの研究所には外部評価という仕組みがあり、岡田善雄先生、豊島久真男先生、岸本忠三先生、曲直部寿夫先生など錚々たるメンバーが評価委員としておられ、研究内容やその方針について、叱咤激励をしていただきました。その甲斐もあって、関口清俊先生、吉田進昭先生、松居靖久先生などが大学の教授になり(のちには長澤丘司先生)、私も2002年に大阪大学大学院医学系研究科教授に就任しました。小児科学教室の教授として、「治らない病気を治る病気へ」という目標を掲げ、治験を積極的に行い、薬剤の開発に取り組みました(図2)。

小児科は幅広い分野をカバーしますので、研修内容の充実を図り、大学院教育を充実させ、心移植や同種造血幹細胞移植など先進的医療に対応できるような人材育成を行いました。中島滋郎先生、難波範行先生、窪田拓生先生、大幡泰久先生、藤原誠先生らが骨代謝研究を推進してくれました。研究の内容も基礎的な研究から、臨床への還元を強く意識した橋渡し研究にシフトしました。また、小児科領域では数少ないこともあり、骨疾患領域の日本代表的な活動も行ってきました。例えば、ビタミンD欠乏症の世界のエキスパートが集まるコンセンサス会議にも参加しました(写真3)。また、非常に名誉あることに、大学を退官するころには、アメリカ骨代謝学会(ASBMR)の学会誌であるJBMRの副編集長に指名され、日本の代表、小児領域の骨研究者代表という意識を強く持ちました。


(写真3) ビタミンD欠乏症に関する世界のエキスパートによるコンセンサス形成会議の出席者
Global consensus recommendations on prevention and management of nutrional rickets. Munns CF et al JCEM 2016

私が教授に就任した2002年の翌年にヒトゲノム計画の終了が宣言され、得られたゲノムデータをどう活かしていくのか、多くの研究者が模索していた時代でありました。具体的な形は完全には理解できていませんでしたが、ゲノム研究は今後の研究の方向性を大きく変えるだろうと考えていました。その後、次世代シークエンサーの開発というブレークスルーがあり、全エクソーム配列を読むことが臨床現場にまで降りてきました。未診断疾患イニシアチブ(IRUD)に拠点病院センター長として参画し、ゲノム研究の第一人者である岡田随象教授に大学院生を指導していただきました。そこから育った山本賢一先生が、小児科のこの分野を牽引しています。

また、2006年に、山中伸弥先生がiPS細胞を確立し、この手法を応用して病態解析も一気に進みました。私たちの研究の対象であった成長軟骨帯は、サンプリングの難しさもありヒトの生体での解析は困難でありました。しかし、ヒトiPS細胞を軟骨細胞に分化させる手法で、随分と楽に骨・軟骨代謝の研究ができるようになりました。これは、のちに創薬にも応用し、企業との共同研究により新規薬剤の開発ができたものや、今はまだシーズに留まっているものもありますが、患者さんのための研究ということが達成できたと感じました。

これは予測して活動していたわけではありませんが、21世紀に入って、特に2010年くらいから、希少難病領域の薬剤開発が隆盛となりました。直近の2025年のASBMRの学術集会のスポンサーに、希少疾患領域の薬剤開発を行っている、Alexion, Ascendis, Kyowa Kirin, Ultragenyx, BioMarinなどの製薬企業が名を連ね、オープニングのプログラムが希少骨疾患の口演セッションだったのは象徴的でした。 行政面でも、日本においては2015年に難病法が施行され、小児慢性特定疾病の法律基盤も整えられました。難病医療に光が当たる時代になったと感じています。

HPPの研究を続けていたことから、この希少難病の薬剤開発という波に乗りました。HPPに対する薬剤の開発に関し、海外の企業から相談を受け、最終的に日本で医師主導治験を行い、ストレンジックという酵素製剤を世界に先駆けて臨床現場に送ることに成功しました。また、過成長を認める家系の責任遺伝子NPR2を同定し、本疾患はEpiphyseal chondrodysplasia, Miura typeとしてOnline Mendelian Inheritance in Manに新規疾患として収載され、新しい疾患として認知されました。NPR2はC型利尿ペプチド(CNP)シグナルに関連し、軟骨無形成症の治療薬であるCNPアナログ製剤の開発の際のヒトに対する効果を支持する重要な発見となったと考えています。

私は日本骨代謝学会に育てていただいたと心から感謝しております。1980年代から骨代謝学会で発表させていただいています。7月後半の最も暑い時期に、汗を流しながら赤坂見附の坂を登り、都市センターについてポスターは貼ったことは懐かしい思い出です。都市センター近くに赤坂プリンスホテルがあり、このホテルに泊まれたらどんなに楽だろうと思ったものです(赤プリにはついに泊まることなく、閉館されました)。2003年には理事にもしていただき、1期の休みを含めて通算6期理事を務めさせていただき、学会運営にも携わりました。学会誌JBMMのassociate editorも2005年から約15年半務め、たくさん勉強させていただきました。柔らかいところでは「映画の話」を担当させていただき、ちょっと自慢できる趣味となりました。2011年第29回日本骨代謝学会学術集会大会長として学会を主催しました。テーマは「進歩し続ける骨代謝学」でした(図4)。小児科は学会の主要分野ではないと思いますが、清野先生のご活躍もあり、日本の骨代謝学の分野では確固たる地位を築いたと思います。私は骨代謝の中でも、難病に焦点を当て、難病患者さんに治療薬を届けることを生涯の目標とすることとしました。大学での最終講義のタイトルを「希少難病疾患研究の進歩:小児科学の視点から」として、それまでの実績とその後の抱負を述べました。そして、医誠会国際総合病院難病医療推進センターにて、診療および治験を含む臨床研究などを行い、北岡太一先生の協力を得て、難病医療の推進を継続しています。そこでのスローガンは「手をつないで、より深く、より強く、前進しよう」です。診療以外にも、患者会との交流や、希少難病のいわゆるアドボカシーにも力を入れています。

今回、望外の喜びである日本骨代謝学会学会賞を受賞させていただきました(写真5)。この喜びを忘れず、難病医療の推進に力を注いでいきたいと思います。今後とも日本骨代謝学会会員各位のご理解、ご協力を賜れれば幸いです。


(写真5) 日本骨代謝学会学会賞授与式 理事長の高柳広先生と

若い人へのメッセージ

よく考えてから実行することは大切ですが、時には、実行してからよく考えるという順番も重要だと思います。

2025年11月20日